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春分の日は、熊本へドライブに出かけた。
SARAXJIJIの撮影以外で熊本へ出かけるのは随分久しぶりのことだ。
それに両親を誘って4人で出かけるのも鹿島へ行った元旦以来。

急に決めた熊本行きで、行きたいところはたくさんあったが、
今回は、8年前に一度行った熊本国際民藝館へ。
行きたいと思っていたことを思い出してよかった。
大抵、そういうことは、家路を急ぐ車中で思い出すものだから。

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民藝館の展示室への出入り口の所に、民藝館を観覧する者へ宛てた心得を説く書面がある。以下に抜粋する。

民藝館では「事柄を知る」のではなく、「物そのものを、じかに、ひたすら見る」(物柄を見る)ことが大切です。 ー中略ー どうか「説明」に気をとられることなく、まず、「物」をよく見て、その品物の美しさ、力強さを感じとってください。(館長)

館長とは、おそらく初代館長 外村吉之助氏のことだろう。
僕は展示室前のこの言葉について、とても面白いと思った。

現在では、「事柄を知る」ことに重きを置く。俗に僕たちはそれを「ストーリー」と呼んだり「コンセプト」と呼ぶ。平易に「中身」と呼んだりもする。時と場合によっては、物の背景となるストーリーが物よりも価値を持つことがある。〝売れるのはストーリーがある商品だけ〟と嘯く人も僕らの業界には沢山いる。

しかし民藝は説明や内容など気にせず、物そのものを、じかに、ひたすら見て、物の美しさ、力強さを感じなさいと言う。

“民藝を見る眼も、その「さわりなき心」の眼でなければならない。民藝趣味などに囚われたら、本当の民藝はもう見えなくなる。眼が不自由になるからである。もともと私どもは、民衆的作品だから美しい等と、初めから考えを先に立てて品物を見たのではない。ただじかに見て美しいと思ったものが、今までの価値標準といたく違うので、後から振り返ってみて、それが多く民衆的な性質を持つ実用品なのに気づき、総称する名がないので、仮に「民藝」といったまでである。
 それ故、自由に直接見たので、(民藝の)概念に囚われて見たのではない。「只見た」というのが実状であった。ところが、この「只見た」事が、吾々に幸したのである。これによって驚くべき光景が吾々の前に展開された”
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上記の言葉は民藝運動の祖、柳宗悦の「改めて民藝について」からの抜粋だ。

“民藝品から吾々が教えられるものは、自由さの有難さ、深さである。それ故「民藝」という事で、見方を縛っては相すまぬ。民藝を縁に、自由をこそ学ぶべきではないか。「平の教」をこそ省みるべきである。茶人なら「平の茶」をこそ点てるべきである。どんな仕事も「平の仕事」でありたい。この「平」より深い東洋の理念はないのである。平易、平静、平和、平穏、皆「平」の字と結ばれるが、平凡を離れた非凡など、大した内容とはなるまい”

どちらが正しいと言うことではない。どちらもおそらく正しいと僕は考えているけれど、今一度、民藝の見方、視点を再確認しておくことは大変有意義なことではないかと思う。
僕がこの「民藝」でとても気に入っている点は「さわりなき心で、只、じかに、ひたすらに眺める」と言う姿勢と、美しさや力強さを感じ取る感性を磨きなさいと説く民藝の考え方である。
民藝は、世界でも類をみない物の見方(捉え方)、審美する感性を提案した「学問」だと思う。
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先日、中村くんの写真展でも感じたが、今は(いや、いつの時代でも...)キャプションが求められる。「只見る」ことの希薄さを感じたのも事実だった。一方では僕も不親切だったかもと考えたが、今一度、「只見る」ことの本義を考えたい。

キャプションもなく只見ることは、地図を持たず旅に出ることに似ている。目的地までの経路を全て自分で判断する。遠回りするかもしれないし、最短で着くかもしれない。或いは、目的地だと考えていた場所は、ただの通過点かもしれない。それを決める確かな物差しを、僕はいつも持っていたいと思う。